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町田エイサー&
  町田琉
結成秘話

​町田琉結成20周年を記念して作成した「記念リーフレット」。ここに「町田エイサーと町田琉の夜明け」というタイトルで執筆した「町田に沖縄のエイサーが何故?」や「町田エイサーって?」、「町田琉の結成」の秘話などを掲載します。

町田エイサー
  町田琉の夜明け…

町田中心街を盛り上げるべく町田中央地区商業対策振興協議会が主催となり、「第1回フェスタまちだ」が開催されたのは1986年のこと。

以来、イベントを盛り上げるために、毎年趣向を凝らしながら、色々な企画が実施されてきた。歌謡ショー、阿波踊り、サンバ、ねぶた… どれもほかの祭りの二番煎じ、三番煎じの感は否めなく、祭りの目玉となる新しいものを探していた。

そんな中、1996年に松沢豊氏が町田市商工観光課へ配属となる。「フェスタまちだ」に限らず、町田の祭りは目玉になるものがなく、役所内でも何か町田の目玉になる「他の市町村にも負けないもの」がないか、高知には「よさこい」があり、浅草に「サンバ」、高円寺には「阿波踊り」、札幌に「よさこいソーラン」、沖縄には「エイサー」などと議論が重ねられていた。
 

町田市は、古くより沖縄市や読谷村などと福祉関係で沖縄と交流をしてきた実績があったことから、1996年8月、有志を募り「沖縄全島エイサーまつり視察団」を結成し、沖縄へ向かった。

この時の視察団には、高尾幸芳氏、又吉一成氏、柳澤秀秋氏、八木下恒昭氏、松沢豊氏、新倉幸雄氏、矢口孝明氏らが名を連ねた。

初めて見る「沖縄全島エイサーまつり」、そこで彼らが目の当たりにした「青年たちの勇壮で華麗な演舞」に感動し、「フェスタまちだ」の目玉になると確信をする。
 

早速、沖縄市へ「フェスタまちだ」への青年会派遣を相談すると、沖縄市青年団協議会(以降、市青協)へ派遣の打診がされ、初の町田派遣が1996年9月に実現することとなる。

これは1996年夏のほんの数週間の出来事である。
 

当時沖縄市長だった新川秀清氏(元山里青年会長・元沖縄県議会議員)から、町田の思いに対する深い理解と積極的な協力が得られたことは、「沖縄全島エイサー祭り視察」から「フェスタまちだへのエイサー派遣実現」までを短期間で可能にした大きな要因だった。

1996年9月、「第10回フェスタまちだ」へ沖縄市より派遣されたのは「胡屋青年会」。市青協にて派遣団体の協議がなされ、当時、市青協内でも最も勢いのあった青年会、1993年に再結成して4年目、2代目会長仲真達矢氏率いる胡屋青年会(胡屋自治会長 当時 大城信男氏)に白羽の矢が立った。

この時の「フェスタまちだ」におけるエイサー披露が、市民から好評を得ることとなり、以降、「フェスタまちだ」には、1997年「登川青年会」、1998年「諸見里青年会」と、3年続けてエイサーが披露されることになる。
 

これと並行して、1996年から続く沖縄市からのエイサー派遣に対しての文化的市民交流を企画した町田側は、翌1997年に「町田・沖縄経済文化交流事業」として、町田市より江戸文化「お神輿」を沖縄市で披露するべく「沖縄市国際カーニバル」へ参加した。この時持って行った神輿は六生会のもの。担ぎ手も大勢町田から沖縄入りした。この頃から市民間交流がさらに深まっていく。
 

1998年のフェスタまちだ実行委員会の反省会において「毎年青年会を招聘してエイサーを披露してもらうのなら、町田にもエイサー団体があるほうが盛り上がるのでは」と高尾英幸が発言すると、それに対し実行委員会から「それは良い!お前がやれ!」と賛同の声が上がった。また、団体を立ち上げるなら母体があったほうが良いとのアドバイスもあり、三石健市氏(当時、幹事長)​率いる町田青年経営者研究会(以降、青研)がその母体となり、青研の事業として「町田エイサー」を発足させるべく、1998年12月に「エイサー準備委員会」を発足させた。
 

1999年1月末には、町田市報や地元地域新聞、フリーペーパーなどで、「町田エイサー」の立ち上げとメンバー募集の告知がスタートし、2月中旬には、約80名の申し込みが数えらた。準備委員会内で認識の差もあり、「エイサーはどこの団体の踊りでも基本は同じ」といった誤った認識もあり、町田の近くで通ってきてもらえる指導者が必要であろうと探した。狛江市に南灯寮と呼ばれる沖縄県出身者用学生寮があり、ここでエイサーが踊られていることが分かり、エイサー指導をお願いすると快く引き受けてくれた。

2月下旬にはエイサー研究のための視察団を結成し、沖縄市へ青年会視察へと向かった。この時の視察団には、加藤英夫氏、山内健治氏、奈良英喜、高尾英幸、加藤信弥らが名を連ねた。視察先となったのは、数ある青年会の中で1996年に初めて町田でエイサーを披露した「胡屋青年会」。当時、青年会を率いていたのは3代目会長渡久地政龍氏。視察団は、「胡屋青年会」でエイサーを実体験し、踊りに限らず、太鼓や旗、音響などの道具に関しても調査した。
 

メンバー募集の呼びかけで集まった市民、老若男女、約100名に対し、3月に第1回説明会が開催され、4月より南灯寮の学生を指導者とする練習会がスタートした。一般参加した市民らは、南灯寮の学生らが指導するエイサーを懸命に練習を始めたが、2月に沖縄へ視察団のメンバーとして参加した高尾英幸、渡辺厳太郎らは、思い描いていたエイサーとはかけ離れていることに、半信半疑で参加していたが、やはり自分たちのやりたかったエイサーは、沖縄市の青年会が踊るような、「胡屋青年会」のようなエイサーであった。
 

当初、既にスタートを切っていた南灯寮指導による「町田エイサー」、この段階で方向転換することはできないと思っていたが、山内健治氏らの多大な後押しにより、協議の結果、「町田エイサー」の名のもとに、南灯寮に師事するチーム「青海波」と、「胡屋青年会」に師事するチーム「琉」、2派を結成することが決まった。ただし、一般公募した会員約100名は全員「青海波」とし、胡屋エイサーを希望した高尾英幸、渡辺厳太郎、加藤信弥、奈良英喜の4名が「琉」となった。
 

「琉」として分派した4名は、会員集めからスタートし、同級生、後輩、友人、同僚など、自分たちの身近な人間を搔き集め、7月頃には、のちに「初期メンバー」と称される10数名が集結した。
 

現在も使用している白い男性衣装は、沖縄と町田の友好を願い、沖縄文化と江戸文化の融合として、神輿の衣装が採用され、長ダボの背中には「龍」のデザインが施され、長ダボの前面には沖縄と町田の強い絆を表した「沖縄の文字と町田の文字が刻まれた固く結ばれた2つの駒札」が中川森明氏によって描かれた。

初舞台は、1999年7月31日カリヨン広場「街かどライブまちだミュージックファクトリー」。男性は全員大太鼓。胡屋エイサー全曲を覚えられないので、仲順流り、久高、唐船ドーイの3曲のみ。地方は養成できなかったので、「胡屋青年会」に特別に録音してもらったCD音源であった。
 

そして「町田エイサー」の目標であった1999年9月のフェスタまちだ。沖縄市派遣青年会は、当時会長 奥間政和氏率いる全盛期の「園田青年会」総勢約50名。町田エイサーは「青海波」が約100名。「琉」は15名。曲目は固み節1曲を追加して全4曲。

今、当時の「町田琉」の演舞映像を見ると、とても人前で披露できるレベルではなかったが、それでも初期メンバーは、「カッコイイ」「かわいい」「やってやった!」と大満足の演舞であった。この時の初期メンバーの驚愕の大自己満足がなければ、今日の20周年を重ねた町田琉は存在しない。「恥ずかしい」「難しい」等ネガティブな印象であったら、解散していたかもしれない。初期メンバーの偉大なポジティブシンキングに感謝したい。
 

1999年フェスタまちだにおける「エイサー」の披露が、「青研」の事業であった「町田エイサー」のミッション完了、事業終了であった。この事業終了の時点で「町田エイサー琉」・「町田エイサー青海波」は解散となった。

同時に、それぞれのグループが協議した結果、今後は「青研」から独立した団体として、引き続きエイサー活動を続けることとなった。この時から「町田琉」としてリスタートすることとなる。

執筆:2019年11月 高尾欣成

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