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​町田琉オリジナル演舞曲目 制作秘話

町田琉結成20周年を記念して作成した「記念リーフレット」に掲載された「てぃんさぐぬ花」と「町田の花」の制作秘話をこちらにも掲載します。町田琉のエイサーは、胡屋青年会のエイサーをそのまま受け継ぎ踊っていますが、いつの日かすべて町田琉オリジナルのエイサーを作ることが胡屋青年いとの約束でした。約束を果たすための1歩目、2歩目となる2曲、「てぃんさぐぬ花」と「町田の花」の制作秘話になります。

​てぃんさぐぬ花

厳ちゃん(渡辺厳太郎)

伝統文化であるエイサーを沖縄からお借りし、東京の町田で踊らせていただいているなかで、沖縄への恩返しをするためには、東京でエイサーという文化を広める事が大切だと感じていました。また、町田琉として広く内外で活発に躍進していくには、会員の拡大、定着といった組織力の向上は必須事項で、会が常に新たな魅力を模索し、創出していくことが、組織の拡大には肝要だと思っていました。

そこで、新たな目標を設定することにより、停滞や慢心している会員のモチベーションの向上が図れないかと考えました。

​まず、選曲には苦労しました。新曲にふさわしい曲を広く会員に募集をかけたところ、様々なご意見が集まったが、どれも決め手に欠けました。私自身も沖縄出身のタックン(新垣琢磨)から沖縄民謡全集のCD を20枚以上借り受け、その中から「てぃんさぐの花」が良いのではと考えました。​胡屋青年会のナンキー(稲福直樹)さんや健琉(比嘉健琉)さん、たっちゃん(渡久地政龍)、しん(砂川真一)などに相談し、また園田青年会の奥間(奥間政和)さんなど、沖縄の多くの皆さんに意見を求めました。すると、必ず帰ってくるの返答は「沖縄の代表的な歌だからとても良い」という意見と、「あれは子守唄だからエイサーにするには、ゆっくり過ぎて出来ないんじゃない?」という声でした。でも逆に「これはいける!」と思いました。テンポは、上げることで解消できるし、沖縄の人々が気付いていないエイサーの「新しい魅力を作れる!」と感じましたから。ナンキーさんに電話で歌いながら手拍子した時に、「その発想はなかった!凄いね!」と言われたのが、とても嬉しかったし、懐かしい思い出です。​

 

振り付けは、沖縄市の青年会で踊られているエイサーの形に準じた範囲で作りました。大太鼓は、主に厳太郎。女踊りは、わたこ、小太鼓・手踊り・曲のアレンジは、コーキにお願いしました。​​​

 

わたこ(斉藤(渡辺)智子)

「横の動きを入れる」のが条件で、女踊りを作るように厳ちゃんに言われました。振り付けを依頼された時は、嬉しいようなプレッシャーのような…。男踊りを厳ちゃんとコーキが作っていて、お互いの踊りを合わせる感じで作ったと思います。

選曲は「これでやりたいけどどう?」てな感じで聞かれたかな。選曲の基準は、「ないちゃーが聞いた事あって、沖縄の青年会がやって無い曲でやりたい」って事だったと思う。この曲好きだけど、踊りには向いてないかなーとは思ったけど、知ってる曲だったから踊りは付けやすいと思ったかな。

 

色々な青年会の踊りをビデオとかで観たり、沖縄のアーティストのコンサートに行ったりして、自分なりに研究しました。そしたら胡屋メンバーから「足が踏みにくーい」と言われて、勉強不足を痛感したね。

 

今はもう少し踊り変えてもいいんじゃないかと思ってます。特に男子は太鼓の音が一定だし、横むきの踊りはお客さんにお尻向けちゃうから、反対にした方が良いかなとか。作ってる時はとっても楽しかった。コーキは才能溢れる人だし、厳ちゃんは実現力あったから、なんか上手くのせられて楽しかった!また新曲増えたらいいなって思います。

コーキ(高橋孝宜)

私がまだ三線をはじめたばかりの時でしたが、当時、会長だった厳太郎さんに呼び出され、「てぃんさぐぬ花で新曲作ろう!」その一言で、厳太郎さんが声をかけた数名によるプロジェクトがスタートしました。ぺーぺーの私がメンバーに選出されたことに不安はありましたが、すでに様々な青年会の踊りや民謡を両面から興味をもっていた自分は適任だとも思っていました。

「てぃんさぐの花」について、厳太郎さんに「これテンポ倍でいける?」と言われ、「いけます」と即答し、結果、雰囲気も変わりとってもアップテンポな曲に仕上がりました。このイメージチェンジにより、エイサー曲として違和感がなくなったかと。また「スーリ東の後に入れたいんだけど問題あるか」と言われ、「…太鼓を打つタイミングが裏拍子と表拍子なので、足がズレますね…」というと「次回練習までになんとかして!」と想定通りの指示をもらい、なんとかしました。

 

問題解決には、久高やテンヨーのように曲の頭でしゃがむことで、足をニュートラルに戻す案もありましたが、できれば、踊り手も気づかないうちに、裏表が変わっているというのをやってみたかったので、試行錯誤して、曲の間につなぎの音を挿入することで、いつの間にか表拍子に変えるファインプレーを出せました。

 

肝心の振り付けについては、基本となる大太鼓の振り付けを厳太郎さんが提示して、それを元に各パートを作っていきました。ボックスステップを変形させたもの、そして胡屋の踊りには当時無かった「横方向」への移動を取り入れています(当時の胡屋にはダイサナジャーはまだなく、スーリ東や胡屋小唄などの「縦方向」の動きが特徴的だった。)。時代ごとに少しずつ細かいところが変わり、今の「てぃんさぐぬ花」となっています。

 

余談ですが、あるイベントで糸満市の某青年会の地謡の方々に囲まれ、てぃんさぐぬ花のアレンジについて、いろいろ聞かれたことがあります。その後、彼らは、その年の全島でてぃんさぐぬ花を導入していました。見事、逆輸入されたようです。

てぃんさぐぬ花工工四
てぃんさぐぬ花歌詞

​町田の花

よっち(高尾欣成)

胡屋青年会とは、胡屋エイサーを町田琉が踊ることの許可を快諾いただきましたが、いつの日か全て町田琉オリジナルのエイサーを作ることが、胡屋青年会との約束でした。

 

会発足当初から踊り作りにチャレンジしましたが、地方すらいない状態で胡屋からお預かりしたCD音源に振り付けをするという形となり、仲順、久高まで作ったものの、音源が同じため訳が分からなくなり、おのずと断念することとなりました。

その後、2代目 渡辺厳太郎会長の時代に「てぃんさぐぬ花」を追加することができましたが、その後を続く新曲はできませんでした…

そんな中、僕が会長となった2006年当初に、当時大学生で役員をしていたエーキ(新城英輝)が「作詞をした。田舎のおばぁにも方言を確認した。新しいエイサーを作りたい。」と嘆願してきたので、即答でOKをしたのを覚えています。そこからの創作活動は、詩、曲、踊り(大太鼓、小太鼓、手踊り、女踊り)、全てがオリジナル。大きなチャレンジでしたが、とても楽しかったことを覚えています。

エーキ(新城英輝)

作ろうと思ったポイントは2つあったと思います。一つ目は、初めて行った胡屋青年会の練習で、つーばー(島袋翼)がダイサナジャーを披露していました。サッカーフランス代表のユニフォームを着ていました。単純に「新曲作成」という状況に活気を感じました。うらやましいとも感じました。ただ、胡屋の先輩(誰かも覚えていない…)に、「琉には『てぃんさぐぬ花』があるんだから、もう新曲はいらないんじゃないか」と飲み会で言われました。でも、当初ダイサナジャーはカタミの後だったので…「ダイサナジャーに変わるものが必要やし」みたいな。

 

二つ目は、よっちさんと新宿エイサー祭りの帰りに、胡屋とのやりとりについて話をしました。確か小田急線の車内で立ち話だったはず。「いつかは琉がオリジナルのエイサーをする約束がある」的な。じゃあ「新曲だろ」って思いになりました。でも、既存の曲を選択するには、何だか意図なく選ぶ気がして…「なぜこの曲を選んだのか」って聞かれたときに、理由を語れる曲に出会えなかったので、「なら作るか」と。

当時会長だったよっちさんに新曲創作の提案をするのですが、却下される想定とかはなくて、よっちさんなら「OK出す」と思っていました。魚民だったかな。役員会の始まる前みたいな時だった気がします。事前によっちさんから町田琉オリジナルの話をしていたので「きっと断られない」と変な自信がありました。こんなこと自分しかやろうとしないなと、琉に新曲が欲しい、あるべきだと…。今思うと、とんだ勘違いヤローですね。

話をよっちさんに持って行った時には、具体的には忘れましたが、もっとストーリーを作れみたいなことを言われた気がします。あっちさん(大嶺昌)云々のくだりだけでなく、琉の発足とか、そういったところから描いてみたら…みたいな感じだった気がします。「町田の花」は、「てぃんさぐぬ花」と違い、作詞作曲完全創作でしたので、 いろいろ苦労しました。最初は本当にただの走り書きで、琉歌集を何冊か見ながら、良いフレーズを探して、「町田」と「花」というキーワードをすべてに入れ込みました。

琉歌の8・8・8・6のリズムを基本にし、唐船ドーイなどでも歌えるようにしました。「わー、帰れんくなったやっさー」というあっちさんの言葉を思い出しながら、③番が出来上がっていきます。苦労はあまり感じず、とにかくワクワクしていたように思います。よっちさんに差し戻しになった後(確か教育実習中?)は、①②番を作り、母方のオバーに添削してもらいました。最初はゆみ姉(大嶺優美子)を「町田の花」として想定して描いた詞でしたが、いつの間にか、町田琉自体を「町田の花」とする歌詞が出来上がり、自分なりに「おぉ」みたいな驚きもありました。オバーからの指摘は…「なやい」はおかしい。「ならい」だと。「いちゃる」より「うたん」じゃないか等、たくさんアドバイスをもらいました。

振り付けは、確か成瀬クリーンセンターを個人的に借りて、振り付け会を一度開催したんですが人数も集まらず、うまくいかなかった…。この辺曖昧です。ただ元は作って、パシフィコ横浜で行われたレクダンスイベントに突入していきます。その会場の控室で元振りを改良し、みんなの意見を寄せ集めて、形ができていったと記憶しています。完成後に5年くらいをかけて、男踊りも女踊りも少しずつ変化し、今の形に落ち着いたと思います。

実は、新曲作りの発端は、健さん(青木健)。胡屋青年会を羽田-町田の送迎した時に、健さんと車の中ふたりの会話で、「全島エイサーまつり出場を目指したいこと」、「新曲を作るとしたら」…なんてことが話題にあがりました。

新曲なら「いちゅび小」が良いとか、健さんは「通い船」が良いとか…「何ならオリジナルで曲作っちゃう?」的な話になり…「あっちさんとゆみ姉の曲とかどう?」「町田の歌を作ってみるか?」と、最初に発したのは健さん。それを私が鵜呑みにして作っちゃいました。

歌詞ができた後、「さぁ曲をつけるぞ」ってなって、コーキさん(高橋孝宜)に相談したところ「OK、OK」と軽い返事でした。その後は…コーキさんから聞いてください。

 

実は歌詞には、⑤番があります。時々、コーキさんが遊びで歌います。『⑤酒を飲んで歌い、酒を飲んで踊って、みんなで盛り上がるって最高だぜ』。私が考えた音は、「八・七・六~」の部分で、屋嘉節の音をもらいました。

④番の歌詞は、当時、自分もそうなりたいなぁ、という願望もありました。

 

曲名の候補には…「新城節」「若葉の砂」「○○サロの花」などがありました…いずれも却下でしたが…。

トコ(新城(大原)朋子)

女踊りを作るから集まってくれと、よっちさんに誘われました。ゆきみ(鈴木(稲富)志美)さんとよっちさんと一緒に「うみんちゅ」(当時あった居酒屋)に集まって創作しましたね。新曲を作ると聞いたとき、何か関わりたいと思っていたので、誘われた時は嬉しかったです。

園田青年会の演舞ビデオとか見ながら良いところを探した気がします。それぞれ、ここは入れたい!みたいにアイディアを出し合いました。ゆきみさんが女性的な滑らかな動きを生かしつつ、「今までにない表現を」と、「両手で花を作るしぐさ」を提案してくれました。踊りを作ることは、なかなかイメージもわかず、難しかったです。

今はその振り付けはやっていないですが、踊るときに男の人と向かい合うところは、みんな、ドキドキするし、楽しいねと言って作りました。ただ、振り付けたのになかなか向き合わず、それができるように隊形も考えたこともありました。

コーキ(高橋孝宜)

エーキより「作詞・作曲・振り付け、完全オリジナルの新曲を導入したい!」という相談があり、作曲を私にやって欲しいという。「あぁ、いいんじゃん」いつものように軽返事をして、結果的にうやむやにするつもりだった。そうやって生きてきた。真剣な顔でボンヤリ聞いてるうちに話は進み、一か月後くらいの練習に各自案をもってくることを約束してしまった。

 

しばらく経ち、その件はもちろん忘れていた。エーキから「明後日の練習ですけど、例の件大丈夫ですよね?」、「…?…っ!!…で、できてるよ」とっさに嘘をついた私。うやむやにするのは無理っぽい。なぜならエーキはすでに5番くらいまで作詞しているようだ。この人はこういうところがあるから本当に困る。

 

平然を装い、実は追い詰められた私は「楽しみにしといてよ!」とだけ伝えると、翌日、三線を背負ってロマンスカーに乗り、湘南の風を感じに江の島に向かった。「海とか眺めてればメロディとか降りてくるんでしょ?」という安易さと、「海を眺めて三線つまびくオレ」というのがカッコイイと思ったのだろう。しばらく三線を持って素敵なメロディーが降臨するのを待ったが、当然、潮風でベタベタになるだけで何も降りてこない…あきらめて帰宅。

 

その夜、自宅にていろんな曲からイメージをパクリ(リスペクトし)ながら、ザックリな「町田の花」があっさり完成した。あと、作曲はエアコンが効いた部屋のほうがはかどることも解った。こうして、何事もなかったように、詩を曲にのせることができ、少しづつ変化しながら、現在の「町田の花」となっている。

町田の花工工四
町田の花歌詞
町田の花歌詞原稿

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